※澪ルートEnding02の翌日の話
――12月25日、クリスマス。
俺に、恋人が出来た。
* * * * * * * * *
「おはようございます、宇賀神先輩」
「あ……ああ、おはよう」
クリスマスの翌朝。
目を覚ますと、そこはラウンジのソファだった。
(そう言えば、昨夜はここであいつと……)
記憶の糸をぼんやりと手繰り寄せながら、身を起こす。
ソファの周りでは、すでに目を覚ましていたあいつが、桜坂や結城たちとともに昨日のクリスマスパーティーの後片づけに励んでいた。
「起き抜けに申し訳ありませんが、先輩も、後片づけ手伝ってもらえますか?」
「は? 手伝うって、何を……」
「はい、これをお願いします」
突き出されたのは、パンパンに膨れ上がったゴミ袋。
「……この俺にゴミ捨てをしろと?」
「自分達が出したゴミを自分達で片付けるのは当然のことです。
お願いします、先輩」
精一杯嫌がってみせるものの、こいつはずいっと袋を押し付けてくる。
(……こいつは、本当に俺の恋人になったんだよな?)
あまりにもいつも通りなこいつの様子を見ていると、昨晩のあれそれは全て夢だったんじゃないのか……? なんていう疑問を抱いてしまう。
「……はぁ、分かった。捨ててくればいいんだろう」
ため息とともに、諦めて袋を受け取る。
と、その拍子にこいつと手が触れ合った。
今までの俺なら、そこで思い切りこいつの手を叩いてしまうところだった。
だが、以前のような不快感は、もうこいつ相手には感じない。
まだ慣れない自分の変化に、俺自身戸惑っていると、ふと、俯くこいつの顔が目に留まる。
「…………」
その頬が真っ赤に染まっているのを見て、俺は息を呑んだ。
……ああ、やっぱり、昨日のことは夢じゃない。
俺達はもう付き合っているのだと、その“赤”が教えてくれた。
(……可愛げのある顔をするじゃないか)
その色に吸い寄せられるように、無意識に片手を伸ばすと……
「宇賀神先輩、ゴミ袋片手にラブシーンはあまり絵にならないと思いますよ」
「……ばっちい」
いつの間にか現れた桜坂と結城に非難され、俺はあわてて手を引っ込めたのだった。
* * * * * * * * *
後片づけが終わると、アパートの連中はそれぞれ仕事に遊びに、と散っていった。
かく言う俺も仕事が入っていて、與田に連れられるまま仕方なくアパートを後にすることに。
「ここ数日、クリスマス公演の稽古のために他の仕事を後回しにしてもらってたからなぁ。
これから年越しまで、一気に忙しくなるぞ~」
送迎車を運転しながら告げる與田の宣告を受け、無意識に眉間に皺が寄った。
忙しくなるということは、イコール、あいつとの時間が減るということだ。
(……結局、今朝もあいつと満足に話す暇すらなかったな)
ようやく恋人同士になれた初めての朝だというのに、あまりにも普段と大差がなさ過ぎる。
この先もしばらく同じような日々が続くのかと、考えるだけでげんなりする。
昨夜、初めてまともに触れたあいつのぬくもりが、もうすでに恋しい。
……あんなゴミ袋手渡しごときでは、到底満足出来やしないほどに。
俺は與田の送迎車に揺られながら、深いため息を吐いた。
「どうした、宇賀神。でかいため息なんか吐いて……悩みごとか?
俺で良かったら相談に乗ってやるぞ」
運転をしながら、與田がそんな言葉を掛けてくる。
(俺の悩みなんて、そんなもの……)
「……あいつに触れさせてくれ」
「あん? 何て言った?」
「…………何でもない!!」
吐き捨てるように言い、パンッと自分の両頬を叩く。
(しっかりしろ。女ひとりのために揺らいでどうする!)
仕事に集中しなければ。
自分は演劇界の頂点を目指す、俳優・宇賀神澪なのだから――。
* * * * * * * * *
……だが、そんな俺の決意は、僅か数日ですり減った。
「…………はあああああ」
「おいおい、ため息がでかくなっていく一方だな」
一日の仕事を終えた俺は、今夜も與田の送迎車の中で盛大なため息をかました。
「ため息を吐きたくもなる……。なんだ、この怒涛の仕事量は」
「だから言っただろ、忙しくなるぞって」
俺の睨みに対し、與田は肩をすくめた。
與田から宣告された通り、ここ数日の俺は仕事に忙殺されていた。
朝はあいつが起きるよりも先にアパートを出、夜は満足に休む暇もなく翌日の仕事の準備に追われる。
怒涛の年末の追いこみ仕事は、想像以上に俺の心を弱くさせた。
「けど、今までお前はこれぐらいの仕事量を難なくこなしてただろう?
それが今回に限って、何をそこまでふてくされてるんだ?」
「……別に、ふてくされてなんかいない」
仕事自体はやりがいがあるし、充実している。
確かにハードではあるが、楽しいとも感じている。
……問題はプライベートだ。
(せっかく気持ちが通じ合って早々、何故この俺がこんな禁欲生活を強いられなければならないんだ……)
……と嘆くと同時に、こんなにもあいつを求めている自分自身に驚いていた。
まさかこの自分が、女ひとりのために、こんなに弱くなってしまうなんて。
(恋人との時間が過ごせない程度でこんなにも落ち込んでしまうのなら、恋なんてしない方が良かったのかもしれない)
気持ちは沈んでいく一方だ。
すると、送迎車は今夜もアパートに到着する。
「まぁ、忙しさの波も明日で終わりだし、頑張れよ」
最後にそんな励ましの言葉を残し、與田は車を走らせていった。
* * * * * * * * *
どうせ今夜もアパートの連中はすでに寝ているんだろう、とふてくされた気持ちのまま玄関の扉を開ける。
だが、今夜は予想外のことが起こった。
「おかえりなさい!」
扉を開いた先に、あいつの姿があったのだ。
「なっ……お前、どうして……!?」
「宇賀神先輩の帰りを待っていました。
最近、ちゃんと顔が見られてなかったので……寂しくて」
ぽそり、と呟くこいつ。
その言葉を耳にした瞬間、俺のなかの何かがぷつりと切れ――
気付けば、こいつを抱きしめていた。
「せ、先輩……!?」
「ただいま。……俺も、寂しかった」
耳元に言葉を注ぎ込むと、こいつの肩がぴくりと弾かれる。
僅かに身を離すと、真っ赤になった顔が俺を見上げていた。
……俺の好きな“赤”だ。
その色を慈しむようにそっと頬を撫でると、こいつが気持ちよさげに目をすがめる。
俺しか見られないのであろうその気の緩んだ表情に、こいつへの愛しさが弾けていく。
溢れて、零れそうなほどに。
その衝動に押されるまま、唇にキスを落とそうとすると――
「あれ~、澪、帰ってたの?」
「玄関ホールでのラブシーンはよした方が良いと思うよ。
みんなが出入りしづらくなるからね」
「んなっ!?」
突如響いた幼なじみ2人の声に、俺達はあわてて互いから飛び退く。
声のした方を見ると、食堂に繋がるドアの前で、藤吾と乃亜がうすら笑いを浮かべていた。
「遅くまでお仕事お疲れ様、澪」
「つかの間の恋人時間を邪魔しちゃってごめんね~。
まあ、先にご飯でも食べたら? 今夜は彼女が作ったリゾットだよ」
「ダメだよ、乃亜。澪はこの子の手料理が食べられないんだから」
「あ、そうだった。カノジョの手料理が食べられないなんて、澪ってばかわいそ~。
まっ、僕達はしっかりきちんと食べたけどね~」
「あんなに美味しいものが食べられないなんて、澪は本当に可哀想だよね」
幼なじみ達が、明らかに俺を狙ってケラケラと笑う。
その2人の様子に――……俺はキレた。
「やかましい!! 俺だってこいつの手料理を食べたいと思っている!!」
それは、嫉妬にかられて飛び出た俺の本心だった。
すると、
「じゃあ、食べてみたら?」
……と、乃亜は事もなげに勧めてきたのだった。
* * * * * * * * *
(…………引き下がれない状況になってしまった)
場所は変わって、アパートの食堂。
定位置の椅子に腰掛けた俺の目の前には、チーズリゾットがほかほかと温かそうな湯気をたてている。
それを皿に盛り付けてくれたあいつは、俺のそばでくず箱を抱えながら――俺がいつ吐き気を感じてもすぐ対処出来るように、とのことらしい――心配そうにこちらをうかがっていた。
そして、そんな俺達をさらに、藤吾と乃亜の2人がにやにやと楽しそうに見守っている。
「あの、宇賀神先輩……本当に、無理しないでくださいね。
ダメだと思ったら、すぐにこのくず箱にお願いしますね?」
「わ、わかっているから、食事の前にそんな汚いものを見せるな!」
俺は緊張する心をなんとか抑え込むと、スプーンを手に取った。
いつぞやの手錠生活中、こいつの手料理を思い切り戻してしまった時のことを思い出す。
あの時は、どうしても身体が受け付けなかったあいつの手料理。
でも、今の俺は……これを心底食べたいと願っている。
(こいつの手料理の美味さを、他の連中が知っていて、俺だけが知らないなんて……。
そんなのは嫌だ)
こいつのことを理解出来ているのは、常に俺だけでありたいから――。
俺はスプーンでリゾットをひと掬いすると、
「……っ!」
意を決して、ぱくっと口に運び入れた。
その瞬間、藤吾と乃亜から「おおっ」という歓声が上がるが、無視をした。
そのまま、無心でもぐもぐと口を動かし――
ごくり、とそれを飲み込んだ。
「……せん、ぱい?」
「澪、どう?」
「大丈夫~?」
3人の目が、一斉にこちらに注がれる。
その視線を受けながら、俺はぽそりと呟いた。
「……うまい」
それは、心からの感想だった。
まるでこいつの性格を表したかのように優しい味をしたリゾットは、俺の体内まで不自由なく運ばれていったのだ。
俺の言葉に、3人はキョトンと互いに顔を見合わせる。
そして……
「え……ホントに!? 澪、普通に食べられたの!?」
「これでまた一つ、病気克服だね。良かったね、澪」
信じられない、といった様子で声を上げる乃亜と、パチパチと拍手をする藤吾。
残ったこいつだけが、何も言えずに放心している。
「おい……何をぼんやりしてるんだ?
せっかく、お前の手料理を食べられたというのに……」
と、声を掛けて数秒後、俺はギョッと目を剥いた。
何故なら……こいつの目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちてきたから。
「お、おい!? お前、どうした!?」
「ご、ごめんなさい。先輩が、わ、私のご飯を食べてくれて、嬉しくて……っ」
こいつは必死に自分の目をこするが、涙は溢れ続けるばかりで、一向に止まらない。
戸惑う俺は、咄嗟に手を伸ばし、こいつの目尻に触れる。
「な、泣くんじゃない。俺はお前を泣かせたいわけじゃ……」
「ご、ごめんなさい……。でも、私……っ」
泣きじゃくるこいつを前に、俺はあわてふためくばかり。
助けを求めて藤吾達を見るものの、2人は互いに目配せして、さっさと食堂を出てしまう。
「お幸せに~♪」なんて笑いながら。
……結局こいつは、俺がリゾットを完食するまで延々と泣き続けていた。
* * * * * * * * *
数時間後、俺が自室で寝支度を整えていると、遠慮がちなノックの音が響いた。
こんな時間にこんなノックをする住人は、このアパートに1人しかいない。
咳払いをし、「どうぞ」と声を掛けると、扉がゆっくりと開いた。
「……宇賀神先輩、今、少し良いですか?」
「やっぱりお前か。……入れ」
俺が顎をしゃくって合図すると、こいつは扉を閉め、ソファ代わりのベッドに腰掛ける。
その隣に座ると、「夜遅くにすみません」と頭を下げられた。
「先輩が忙しいのは知ってますから、邪魔したくなくて、ずっと我慢してたんですが……。
今夜は、どうしても先輩と話がしたくて」
「構わない。俺も同じ気持ちだったからな」
肯定してやると、こいつは安堵したように表情を緩める。
「それから……食事中はずっと泣いてしまって、すみませんでした」
「いや。もう落ち着いたのか?」
「はい、なんとか……」
そう言って、気恥かしそうに微笑む。困ったようなその表情が愛らしい。
俺は片手を伸ばすと、こいつの肩を抱き、こちらに引き寄せた。
すると、こいつもおそるおそるといった様子で、俺に身を預けてくる。
互いに風呂上がりなせいもあってか、触れ合った身体がやけにあたたかく感じた。
「……それにしても、何も泣く必要はなかっただろうに。
お前は涙腺が緩いな」
食事中の光景を思い出しながら呟くと、こいつはむくれた顔をして俺を見上げてくる。
「泣くほど喜ぶことです。先輩は、分かっていないんですよ」
「何をだ?」
「先輩が、どれだけ私を喜ばせてくれてるかってことを、です。
先輩が私の料理を食べてくれること、触れた手を振り払わないでくれること、こうして抱き寄せてくれること……
私にとっては、全部、奇跡みたいなことなんですよ?」
こいつは俺のシャツを掴み、真剣に訴えかけてくる。
揺らめく瞳には僅かに涙が滲んでいて、こいつの必死さがうかがえた。
「……そう、だな。俺も、まだ信じられない。
世界で一番大切だと想う女と、こうして触れ合えるなんてな」
こいつの強張った頬を両手で包み込み、額を合わせる。
まるい瞳には俺の姿だけが映っていて、今この瞬間、こいつの世界を占領しているのは俺なのだという優越感を覚えた。
しばらくこいつは嬉しそうに俺を見つめていたが、やがて、何かを思い出したかのように唐突に身を離した。
「私、先輩にしてあげたいことがあるんです」
そう言って、俺の前に両手を広げてくる。
「なんだ? それは」
「先輩は頑張って仕事をして、頑張って私のご飯を食べてくれました。
頑張った人にはご褒美をあげないと……でしょう?」
首を傾けて微笑むこいつに、いつぞやの夜、交わした約束を思い出す。
――頑張ったご褒美には、ぎゅっと抱きしめるご褒美を。
こいつが俺にしたいこととは、そういうことなんだろう。
それなら……と、俺はその華奢な腕の中に身を預けた。
こいつは俺を抱きとめると、片手を伸ばし、よしよしと頭を撫でてくる。
その心地よさに、胸がトクトクと高鳴っていくのを感じた。
「今日はとっても嬉しい日です。
先輩にもっとたくさんおいしいものを食べてもらえるように、私、料理の勉強も頑張りますね!」
「やたらはりきってるな」
「もちろんです。好きな人のためですから」
頭を撫でる手を止めると、今度は両の手で、力いっぱい抱きしめてくる。
「私、これでも浮かれてるんですよ。先輩の恋人になれて……。
先輩が仕事に出ている間も、先輩のことばかり考えてしまうし」
「え……そうだったのか?」
「はい。大好きですから」
「…………そ、そうか」
不意打ちの『大好き』は、どうにも心臓に悪い。
けど、それに追い打ちをかけるように、こいつは言葉を重ねてきた。
「だから……恋人として先輩にしてあげられることがあるなら、出来る限り応えたいです。
何でも言ってくださいね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の理性が再び途切れた。
こいつの身体を抱きしめ返すと、そのままベッドに押し倒す。
そして、そのままベッドに縫いとめるように、こいつの上にのしかかった。
「本当に、何でも言っていいのか?」
「え……?」
「俺は強欲だから、あの程度の褒美じゃ足りない。
お前の手料理だけじゃなくて……お前自身のことも食べたい」
俺を見上げるこいつの肌が、燃えるように一際真っ赤に染まっていく。
――ああ、やっぱりこの“赤”が好きだ。
そうして俺は、まるで獲物を求める野獣のように、こいつの肌に唇を滑らせていった。
* * * * * * * * *
――翌朝。
アパートまで俺を迎えに来ていた與田は、顔を合わせるなり「おや」と首を傾げた。
「宇賀神、今日は昨日と打って代わってご機嫌だな?」
「フン。別に、いつも通りだ」
ぷいとそっぽを向くと、わざわざ早起きをして玄関先まで見送りに来てくれたこいつと目が合った。
「先輩、いってらっしゃい。今日も一日頑張ってくださいね」
「ああ。頑張るから、また褒美をくれよ」
「……! あ、えっと、は、はい」
ぽんぽんと頭を撫でると、こいつは顔を赤くし、しおしおと小さくなっていく。
その様子がおかしくて、自然と笑みが零れた。
(恋をしなければ良かった……なんて、やっぱり、そんなのは嘘だ)
恋をしたせいで、俺は弱くなりもしたけれど……
それよりも、もっとたくさんの喜びを手に入れた。
これからも、この喜びを感じていたいから――
その代償として生じた自分の弱さも、全部受け入れていこう。
「じゃあな、いってきます」
そんな決意を固め、俺は與田とともにアパートを後にしたのだった。
……だから、俺は知らなかった。
「ねぇねぇ、その後澪とはどうだった~?」
「熱い夜は過ごせたかな?」
「え、えっと……た、たくさんキスして、抱きしめてもらいました」
「「え、それだけ??」」
その後、俺の幼なじみどもが、余計な詮索をあいつにしていたことを。